6理事辞任に至る経過報告
−理事会内の混乱終結にあたって−


       平成18年7月2日









              <目  次>

1 事務局長人事問題の発端(平成17年8月)
2 コンピューター問題の発覚(10月)
3 4理事の行動と八木会長の変節(平成18年1月理事会まで)
4 幹部役員の大量辞任から八木執行部の解任へ(2月理事会まで)
5 種子島体制とその変質(3月理事会まで)
6 謀略の発覚と八木氏ら6理事の辞任(4月理事会まで)




新しい歴史教科書をつくる会






■1 事務局長人事問題の発端(平成17年8月)

 (1)今回の理事会内部の混乱は、事務局長人事に端を発するものである。事務局長人事が最初に公的な場で提起されたのは、翌月に定期総会を控えた平成17年8月27日であった。この日開かれた執行部会で、種子島副会長が自らの退任を申し出、「宮崎事務局長も(会の在職期間が)6年続いたので、事務局刷新のため退任してはどうか」と提案した。執行部は、八木会長と遠藤・高森・種子島・藤岡の4人の副会長で構成されていたが、この日の会議に出席していたのは八木・種子島・藤岡の3人であった。種子島氏は西尾名誉会長に対しても、「宮崎氏はよくやっているが、任期が長引くことに必然的に伴うマンネリズムがある」との見解を伝えていた。
八木会長の当時の認識も、「宮崎氏は実務的な仕事を若い人に任せず何でも自分でやってしまうので、若い人が育たない。アポを取るなどの仕事は他の職員にやらせればいい。人を使えない上司のもとでは、みんなの仕事がうまく行かない」というものだった。 藤岡副会長は、採択活動における宮崎事務局長の消極的姿勢、たたかう意思の欠如を指摘していた。また、支部や採択地区からの情報を独占し、八木会長や藤岡採択本部長に適切に上げないことも問題で、再三指摘したが改善されなかった。このように、宮崎氏と直接接触のあった幹部の認識は、事務局長としての宮崎氏の仕事ぶりに改善すべき問題があると見る点で共通していた。

 (2)8月31日、八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長の4人が顔を合わせる機会があり、その場を利用して事務局長人事問題を非公式に検討した。その結果、「宮崎氏は事務処理等においては有能だが、事務局長職はある意味で会の『顔』であり、攻めの姿勢を持つ人物が望ましい」との見方で一致した。
 ただし宮崎氏を解雇するという発想はまったくなかった。事務局長が運動面でリーダーシップを発揮することはもちろん重要だが、運動組織にとっては事務処理を遺漏なく進めることもそれと等しく重要である。宮崎氏に両方を求めるのが無理であるならば、運動面をリードする幹部職員を別に招聘し、宮崎氏との役割分担をはかるのが妥当ではないかとの結論に至った。確認されたのは、人事の「刷新」ではなく「強化」である。
 具体的には、運動面で会をリードする幹部職員を事務局長として招聘する、宮崎氏の処遇については事務総長に就任させるか理事に昇格させる、などの案が出された。ただし、この点に関してこの日は結論には至らなかった。小さな会で「事務総長」はいかにも大仰であるし、理事に昇格させると、つくる会には「理事は無給」の原則があるため、宮崎氏に給与が支払えなくなるといった事情があったためである。会の運動面を強化するのと同時に、宮崎氏にも引き続き職員として一定の役割を担ってもらうというのが、当時の幹部間の共通認識であった。
 このとき新事務局長候補として何人かの名が挙がったものの、誰を推挙するとか、有力であるといった話は一切出ていない。むしろ、より広い視野から適当な候補者を発掘するために日本会議の椛島事務総長に相談してみてはどうかとの意見が出、当時椛島氏と接触する機会の多かった西尾氏が、これにあたることになった。西尾氏は機会をとらえて椛島氏にことの次第を打ち明けて協力を依頼したが、その後椛島氏からは特に連絡もないまま過ぎた。

 (3)西尾名誉会長は、9月中旬、西東京支部で活動していた濱田実氏と電話で話す機会があり、思い立って、つくる会の事務局長として来る意思がないかと打診した。おおむね肯定的な返事だったので、西尾氏が藤岡副会長に伝えたところ、八木会長の事前の承諾を得ないまま相手先に声をかけてしまったことに危惧を抱いた藤岡氏から、「八木会長に至急話して同意を得る必要がある」と進言があった。西尾氏はそれに従い、八木氏からは一応の承諾を得た。
 初動の際の西尾氏の先走りともいうべき行動は、あくまで会を思う至情から出たこととはいえ、後に八木氏が不満をもらす要因となった。ただ、この件については、のちの12月25日の執行部会において西尾氏は八木氏に謝罪したし、八木氏も以後このことの責任は問わないと述べた。また、翌年1月16日の理事会の冒頭でも西尾氏は自身の行動を軽率であったとして謝罪した。これらによって、西尾氏の先走りの問題については決着がついた。

 (4)9月17日、全国の中心的な活動家を交えた採択活動者会議が開かれ、採択戦の総括が行われた。その懇親会終了後、八木会長、藤岡副会長、西尾名誉会長の3人は宮崎氏との会合の場を設定し、宮崎氏に対して事務局長退任と配置転換を打診した。処遇については、事務総長案や理事就任案などいろいろあり得るとした。話は西尾氏主導で進められ、藤岡氏はおおむね西尾氏に同調し、八木氏はあまり明確な意見を述べなかった。ただし、八木氏は西尾氏に反対する意見などは一切述べていない。なお、当時つくる会の幹部は八木会長はじめ多忙を極め、一堂に集まる機会がなかなか得られなかったという事情があったとはいうものの、酒席の延長で重大な話を切り出すのは宮崎氏に対して非礼に当たる点がなかったとは言えない。
 このとき宮崎氏は一旦、「それなら会を辞める」と強く反発したが、「家族と相談して冷静に検討してほしい。明日返事をもらいたい」との西尾氏の説得に従い、「考えさせてほしい」と引き取った。
 宮崎氏は、この件を日本政策研究センター所長の伊藤哲夫氏に相談したが、その際、自分は採択の敗北の責任を全て押しつけられたと説明し、これに激怒した伊藤氏は、のちに「(被雇用者という)弱い立場の者に責任を押しつけるとは何事か」と西尾氏に怒りを表明するということがあった。しかし、以上の経過からも明らかなように、執行部が採択の敗北責任を宮崎氏一人に押しつけたという事実は全くなく、あくまで事務局強化の一環として人事を問題にしていたのだから、宮崎氏の訴えは事実に反する。
 宮崎氏は、翌日の9月18日に事務局長退任について拒否回答した。このとき宮崎氏から「(有給の)専務理事ではどうか」との逆提案があったが、「理事は無給」の原則に反すること、専務理事では権力が集中しすぎる恐れのあることなどから、執行部の受け入れるところとはならなかった。

 (5)9月25日、つくる会の第8回定期総会が開催された。総会では、採択戦の総括を行い、「つくる会」大躍進へ向けた強化方針を決定し、役員の新人事を承認した。採択戦については、敗北の主体的要因として、戦術面における「著しい受動性・消極性」があったこと、不当な攻撃に対しても機敏に反撃する姿勢に欠けていたことが指摘された。それを踏まえて、強化方針では、「運動」担当専任職員の配置、人事の刷新・強化、などがうたわれた。
 新執行部は、八木会長と、遠藤・工藤・福田・藤岡の4副会長の5人によって構成されることとなった。遠藤副会長は新人事の提案において「(刷新ではなく)態勢の強化だ」と強調。役職員の「入れ替え」ではなく「補充」によって会の強化をはかることが方針であり、特定の人物の退任による「刷新」ではないとの執行部の姿勢を示した。
 9月28日、遠藤副会長は八木会長に対して「会長として事務局長人事をどういう方向に持って行く考えか。事務局長は会長のパートナーなのだから、あなた自身が指導力を発揮すべきだ」と進言した。八木会長は「運動面の強化は必要だし、宮崎氏に対する不満もあるが、自分としては当面宮崎事務局長を辞めさせる考えはない」と返答した。

 (6)10月9日、執行部会を開き、事務局長人事は当分据え置きとし、濱田氏を事務局次長として補充する人事を行った。ただし、この会議で濱田氏をその先事務局長に任用するとの暗黙の合意も決定も一切行っていない。会議では、翌年3月をめどに、宮崎、濱田両氏の処遇を含め事務局を抜本的に改組するという方針を決定した。
 10月19日、八木会長、遠藤・藤岡副会長は、宮崎事務局長に会い、9日執行部決定を伝えるとともに、事務局長と事務局次長の役割分担等の事務局の体制について打ち合わせを行った。

2 コンピューター問題の発覚(10月)

 (7)10月下旬、事務局をめぐる2つの問題が持ち上がった。10月21日、この日より濱田・新事務局次長が出勤するにあたり、紹介をかねて事務局員の会議に遠藤・藤岡副会長が出席し、あわせて翌年3月までに事務局の体制を根本的に再検討するという執行部の方針を伝えた。会議後、藤岡副会長は会員管理システムについて保守サービスが十分受けられないという問題が生じている旨を、偶然の機会に担当職員から知らされた。その職員は宮崎事務局長に再三にわたり改善を求めてきたが、一向に対処しないばかりか、返って事務局のなかで疎外される状況にあった。問題は3年前の会員管理ソフトの発注時から始まっていることもわかった。執行部としては、緊急に経過と実態を詳細に調査する必要があると判断した。
 コンピューター問題の発覚とたまたま同時期に、八木会長は八木夫人の発案を生かして、事務局員に採択戦後の会の活動のあり方について思うところを述べるレポートを書かせた。提出した事務局員全員のレポートをまとめた文書が、会長の指示で、事務局から執行部のメンバーの自宅に送られた。それによって、服務規律の弛緩、職務分掌の不明確など、事務局に改善すべき基本的な問題のあることが判明した。事務局の実務方面は万全であると見られていただけに、衝撃があった。いずれにせよ、執行部は、コンピューター問題を含め、事務局の問題に緊急に対処する必要に迫られた。
 10月28日、執行部会が開かれ、八木会長の提案に基づき執行部内に事務局再建委員会を置き、その下部組織としてコンピューター問題調査委員会を設置した。調査委員会には、八木会長、遠藤・藤岡副会長の3名に加えて西尾名誉会長が参加、調査の内容に応じて高池理事、富樫監事にも出席を要請することとなった。また、これも八木会長の提案で、事務局の執行部管理を決定した。このとき八木会長は「コーンパイプ」(日本の占領統治のため厚木飛行場に降りたマッカーサーがくわえていた)という言葉を使い、「執行部による事務局直轄統治だ」と、意気込みを示した。
 これらの措置は、同日の理事会で報告され、承認された。八木会長はこの日の執行部の会議とその後の理事会で積極的に発言し、方針の立案と執行を主導した。会長のリーダーシップが発揮されていた。八木会長は、この段階で、鈴木尚之氏を事務局長に任用する構想を抱いていた。理事会後、理事の懇親の場が設定されたが、八木会長は参加せず、その時間に事務局員数名と会って、「鈴木事務局長案」を示し、事務局員の感触を確かめていた。鈴木氏は採択期間中の8月末まで、つくる会の事務局の一員として活動しており、事務局員は会長案に積極的な賛意を示した。

 (8)10月31日、藤岡副会長、高池理事、富樫監事が事務所に出向き、執行部会の決定に基づき、事務局の執行部管理を通告した。宮崎事務局長は、この日からコンピューター問題を調査する期間に限り、自宅待機となった。ただし、それは事務局長の更迭や罷免を意味するものではないことも説明した。
 11月2日、事務局再建問題及び会員管理システム問題に関する調査のためのヒアリングを開始した。主な内容は以下の通りであった。
 2日 会員管理システムに関する事情聴取(丸山・田村事務局員、宮崎事務局長/遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長、高池理事、富樫監事)
 4日 事務局機能全般に関する意見聴取(的場・福原・土井・高橋・丸山・平岡事務局員/八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長)
 8日 会員管理ソフトの受注側であるコンピュートロニクス株式会社からの事情聴取(平岡真一郎氏/遠藤・藤岡副会長、高池理事、富樫監事)
 9日 現行会員管理システムに対する第三者業者による調査・点検(コアサイエンス社/藤岡副会長、丸山事務局員他)
 同日 宮崎事務局長への事情聴取及び今後の対応に関する協議(宮崎事務局長/八木会長、遠藤・藤岡副会長、西尾名誉会長)
 12日 種子島理事(発注時の財務担当副会長)への電話による事情聴取(種子島理事/藤岡副会長)
 
 (9)11月12日、拡大執行部会(八木・遠藤・福田・藤岡、及び西尾・高池の各氏が出席)は、上記の調査に基づき調査報告書を確定し、執行部(および理事会)と宮崎事務局長の責任を問う処分案を決定した。同日、宮崎氏に口頭で通告するとともに、全理事に送付した。八木会長は、この会議でも積極的に発言し、宮崎氏の人事案件を推進した。この日、確定した「会員管理システム問題にかかわる調査報告」をもとに事態の経過をかいつまんで述べれば、次の通りであった。
 平成14年10月に導入された現会員管理システムは、不具合が生じてもシステム開発業者であるコンピュートロニクス株式会社(以下「コ社」)によるメンテナンス業務が十分に行われないという問題が平成16年秋以来発生していた。コ社とつくる会との間には保守契約が締結されているのであるから、軽重を問わずシステムに障害が発生した際に即座に対応しないのは契約違反であると言える。これに対してコ社側は「つくる会から毎月受領している11万円はシステム構築料の分割払い分であり、保守契約は名目にすぎない」との解釈をとり、契約を根拠とした保守業務に難色を示した。
 一方が契約に基づきメンテナンスを求めるのに対して、もう一方が「契約は名目的なもので、実際は保守契約ではない。メンテナンスは別に請求し有償で行う」と主張するのは奇妙な事態である。メンテナンスが満足に受けられないという、現実に起こった問題の原因を明らかにするには、契約時の事情にまで遡らなければならない。
 そこで、どういう経緯で現行システムが導入されるにいたったのか、事実経過を調査し、併せて直接の執行責任者として宮崎事務局長がどのような認識をもって事に当たったのか、問題が明らかになった現在、どのような認識を持っているかについてヒヤリングを中心として調査を行った。
 事実経過に関しては会の記録、宮崎事務局長による経過報告を主たるソースとし、それに富樫監事、平岡氏(コ社)、種子島理事らの証言を加味した。調査の結果明らかになった問題点は次の通りである。
 @つくる会の性格や財政規模を勘案した上でどういうシステムが必要であるのか、どういうプログラムの仕様を業者に求めるかについて十分な検討がなされないまま、安易な発注を行った。
 A場当たり的に機能の追加や変更を繰り返した結果、コストが高騰し、制作費の一部を保守契約の名目で分割払いとするかのような弥縫策が取られたため、保守契約に関する玉虫色の解釈が生じる一因となった。
 B新システムへの移行に際して、最初から業者をコ社一社に絞り込み、複数業者による「相見積」等の措置をとらなかったため、同社との契約に関する不透明感を増大させ、コ社の提案や見積額が妥当かどうかの発注時点での検証が困難になった。
 C現行システム導入の狙いは、個人との契約にメンテナンスを依存していた従来の会員管理システムの不安定性を解消するために、企業との契約によって安定性を確保することだった。しかし、新システムのメンテナンスも、Aの事情のため、実態はコ社の平岡氏(つくる会会員)個人の善意に依存したものになってしまい、平成16年11月に同氏が担当を離れると同時に「安定性」は危機を迎えた。この時点でも、つくる会側は迅速な対策をとらなかった。
 D発注、支払や設計の変更など既成事実の積み上げが先行し、理事会(執行部)への報告や契約書・仕様書等基本文書作成などが事後的に取り扱われたため、理事会(執行部)全体として問題を認識・把握するのが遅れ、早期に適切な処置をとることが困難となった。
 E実務執行責任者たる宮崎事務局長は、会員の浄財で運営される本会において高額投資案件がわずか3年で危殆に瀕したという事態の本質を理解せず、その深刻性について執行部と認識を共有していない。
 
 (10)宮崎氏に対しては関係者の中で最も多くの時間をかけて事情聴取が行われた。弁明の機会は十分にあった。しかし同氏の応答は、不誠実なものであった。なぜ相見積りをとらなかったのか、なぜシステム仕様について徹底的な検討をせず場当たり的な要求を繰り返したのか、なぜ請求書もないまま525万円もの振り込みを行ったのか――といった疑問に対する返答は、「こんな小さな会だから、相見積りなどまったく考えていなかった」、「自分はコンピューターに関して素人だから、担当者に任せた」、「記憶にない」といった、事務局長職にある者としては誠実とはいえない回答に終始した。小さな会で財政事情が厳しいからこそ、またコンピューターに詳しくないのならなおさら、高額投資には細心の注意を払わなければならなかったはずである。しかし宮崎氏にはそういう問題意識はなかった。どういうわけか発注を急ぎ、請求書も来ないうちに支払いを先行させた。
 最も執行部を失望させたのは、宮崎氏が「一体、何か問題なのか」、「責任を問われるべきは承認した理事会だ」という姿勢に終始した点である。それどころか、同氏からは何度か「もう済んだ話だ。今更取り上げる方がおかしい」との発言が飛び出した。これには執行部は唖然とした。会員数8千名(当時)、年間予算5千万円の団体にとって総額1千万円の投資は決して小さなものではない。それだけの高額投資であるにもかかわらず安易かつ不明朗に発注されたことが今日起こっている問題の原因なのである。ところが、宮崎氏からは執行責任者としての反省の姿勢は全く感じられず、問題を取り上げる方がおかしいという態度を最後まで崩さなかった。このとき、宮崎氏を事務局長として温存することは、会にとって禍根になるのではないかとの疑念が、執行部メンバーに生じた。
 なお、宮崎氏と執行部との話合いは一貫して紳士的になされたし、その事実関係については宮崎氏も十分同意していたにもかかわらず、同氏が外部の人々に対し、「共産党がやるような査問をやられた」と、会に対する悪宣伝を吹聴したのは遺憾である。

 (11)宮崎氏は「コンピューター問題は存在しない」と主張したが、しかし問題を「無かったこと」にするわけにはいかない。そんな安易な姿勢では、浄財によって運営される会は成り立たない。もちろん、宮崎氏だけの責任を追及すればすむ話ではない。それを追認した執行部・理事会にも大きな責任がある。とはいえ、執行部・理事会は無定見な発注の実態について宮崎事務局長から報告を受けることなく承認を求められたのであり、全てが執行部・理事会の責任であるとする宮崎氏の議論は成り立たない。
 では、どのようにして執行部・理事会の責任を明らかにすべきか。発注当時の執行部の何人かは会を離れているし、直接の担当責任者だった種子島氏はすでに副会長職を退いている。そこで、現執行部と名誉会長の6名が、当時と現在の執行部・理事会の責任を代表して、総額百万円の罰金を会に納めることとした。理事は無給のボランティアであり、減給等の処分を下せないため、自分たちの財布から罰金を納めることによって象徴的な形で責任を明らかにしようとしたのである。
 宮崎氏の処分については執行部内でかなりの議論が行われた。「この際、解雇すべきだ」という主張もあったが、議論の末、結局、会員管理システム問題と事務局長の雇用問題は分離して処理すべきであるとの方針で執行部見解は統一され、「@事務局次長への降格、A3ヶ月間減給10%、B当分出勤停止」との処分案に落ち着き、11月12日に一連の措置がとられた。執行部としては、会員管理システム問題をもって宮崎氏を解雇することはしないとの結論に落ち着いたわけである。
 なお、「コンピューター問題はなかった」といった議論が後に一部で出回ったが、これは虚偽をもとにした悪質な宣伝である。第三者であるコアサイエンス社の技術者、システム開発にあたったコ社、本年3月以降コ者との契約が切れるという緊急事態に対応するためメンテナンスを依頼したK氏のいずれもが、一様にシステムの不安定性を指摘している。@不明朗な発注によって、A1千万円もの投資をし、Bそれがきわめて不安定な状況にある、という問題は依然として解決されていない。
 
 (12)執行部としては比較的軽い処分で収めたつもりだったが、「そもそも問題にする方がおかしい」との立場の宮崎氏は、納得しなかった。遠藤副会長は報告書の原案を宮崎氏に示し、事実経過等について正確でないところがあれば修正するとして、宮崎氏からの連絡を待った(宮崎氏も事実経過についてはおおむね報告書の通りであると述べていた)。しかし、報告書についての修正要求を出さないまま、宮崎氏は執行部への反論文書(タイトルなし)を作成し、11月16日、全理事に直接送付した。その内容は、@恣意と歪曲に満ち、A自身の責任にはほとんど言及せず、B事務局長人事の方便として執行部が会員管理システム問題を持ち出したと印象づける作為に満ちたものであった。
 確かに事務局長人事問題と会員管理システム問題は併存していた。しかし、すでに見た経緯からも明らかなように、執行部にはこの時点で宮崎氏を解雇する意思はなく、誠実に議論を重ね、会員管理システム問題と人事問題を結びつけないとの結論を確認している。むしろ宮崎弁明書にこそ、二つの問題を結びつけることによって、粛々と処理すべき事務局再建問題を内紛に発展させ、その混乱を利用して保身をはかろうとの底意がうかがえた。執行部としては到底容認できるものではなかったが、混乱を拡大させてはならないとの配慮から敢えて反論は差し控えた。しかし、恣意と歪曲に満ちた「宮崎弁明書」の登場によって、執行部と宮崎氏の信頼関係は一瞬にして崩壊し、ここに至って「宮崎問題」が急浮上した。

■3 4理事の行動と八木会長の変節(平成18年1月理事会まで)


 (13)11月18日、この問題を議し、執行部の処分に承認を得るための緊急臨時理事会が開催された。社会的常識から言えば、事務局長人事は執行部マターであり、理事会は執行部を不信任するのでない限り、執行部の方針を承認するのが普通である。しかし、招集された理事会では、宮崎弁明書が早速効果をもたらした。この理事会の場で、初めて公然とした、激しい執行部批判が展開された。内田理事は宮崎事務局長について「学問もあり、能力もあり、実績もある人を、なぜ、石をもて追うがごとくにするのか。そんなことをしたら、つくる会は他の保守系団体の支援を得られない」と発言した。この時点ですでに、宮崎氏の人事が他の団体のつくる会に対する支援と結びつけて論じられていたわけである。
 当日は会議の時間が1時間と制約されていたために、この場で結論は出ず、継続審議となった。勝岡理事も内田氏と同じ立場であり、欠席した新田、松浦両理事も意見書を提出した。欠席した高森理事も独自の立場から執行部に意見書を提出した。なお、注目すべきは、松浦理事の意見書の中で、宮崎事務局長をやめさせれば、宮崎氏とのつながりで会に多額の寄付をいただいている支援者が離れるとされていたことであり、さらに、この段階で早くも新田・松浦理事は、理事会における議決権の行使について内田理事に委任状を託していたことである。理事会ではそれまで多数決でことを決したことは皆無であり、執行部に反対する理事たちは、早くも妥協なき対決姿勢を固めていたのである。

 (14)執行部は、新たな事態に直面したが、これを基本的には事実認識の落差にもとづく見解の相違ととらえ、関係者への説明や説得を重ねることで理解が得られる問題であると認識していた。
 そこで、12月1日、この日予定していた理事会を延期し、執行部会を開催して一連の方針を決めた。その方針に基づいて、宮崎氏が進退について相談した相手方であり、教科書運動の強力な支援者でもあった日本政策研究センターの伊藤哲夫氏を、八木会長、遠藤・福田・藤岡副会長の4名で訪ねて事情を説明した。その結果、執行部と宮崎氏との信頼関係が崩壊した現状を踏まえ、コンピューター問題での宮崎氏の降格処分は敢えて行わず、宮崎氏は事務局長の身分のままで円満退職するとの妥協案について、伊藤氏の同意を得た(後に、伊藤氏は同意した事実を否定したとされる)。
 この同意に基づき、執行部(八木会長、遠藤・藤岡副会長出席)は12月7日、宮崎氏に対し、事務局長人事はあくまでも9月総会で決定した新たな運動方針にふさわしい人選をするという観点から考えており、宮崎氏はその構想からはずれたことを八木会長が説明し、「大人の解決」としての上記「円満退職案」を提示した。宮崎氏は、他の人に相談したいとして回答を保留し、12日までに返答することとなった。
 同じ12月7日、執行部は事務所におもむき、12月1日の執行部決定に基づき、事務局長不在の状態が長く続いたことをとりあえず解消するため、自宅が事務所に近い藤岡副会長を一時的に事務局長代行として事務所に出勤させる方針を事務局員に伝えた。藤岡副会長は、結果的には8日から1週間事務所に出勤した。

 (15)12月9日、宮崎氏は7日の執行部提案について八木会長に対して拒否回答。同日、藤岡副会長には次のように回答した。
 @12月7日、執行部から提案された、「事務局次長降格などの処分を受けずに、事務局長の身分のまま円満退職する」という、「大人の解決」にいったん心を動かされたが、3、4人の人と相談した結果、やはり執行部の提案を拒否することにした。
 Aこれは東京裁判と同じである。東京裁判を批判するはずのつくる会が、東京裁判と同じ事をしていてよいのか。
 B宮崎事務局長を辞めさせれば、各種支援団体が、つくる会の支援から一斉に手を引く。
 C伊藤哲夫氏は、12月1日に八木、遠藤、福田、藤岡の4人と面会した際、宮崎事務局長の「円満退職」案に同意した事実はないと言っている。
 D宮崎事務局長を辞めさせるならば、藤岡副会長も辞めさせるべきだ。
 E自分の処遇が理事会で決定されれば、それには従う。
なお、この時期、宮崎事務局長は連日のように事務局メンバーと会食するなどして、事務局員を紛争に巻き込んでいった。

 (16)12月10日、藤岡副会長は事態収拾のため、宮崎氏を「会長補佐」に任命し、事務局のラインとは切り離して会長委嘱の任務を課すという案を八木会長に提言、八木会長は「それがいい」と賛意を示した。
 しかし、この間、11月18日の臨時理事会から20日以上経つにもかかわらず、八木会長は理事に対し事態がその後どうなったかという説明を一切行わず、早期に理事会を招集すべきではないかという副会長その他の理事の助言や要望を無視して、理事会はおろか執行部会すら招集する構えを見せなかった。このように事態を放置した上で、事務局員の不満、理事の疑心暗鬼、副会長の焦燥などが高まったのを見計らうかのように、12月11日、八木会長は他の執行部メンバーに、「処分はすべて凍結、宮崎氏をとりあえず事務局長に戻し、翌年3月までに鈴木事務局長体制に移行する。以上の線で会長に一任してほしい」旨を提案した。各副会長はやむなくこの提案に同意した。
 12月12日、6理事(内田・勝岡・高池・高森・新田・松浦)連名の「理事会招集の要望」が事務所に送られた。これは、理事会が一向に招集されず、理事に対する事情説明もなされていない状況のもとでは、当然の要求と言えた。
 次いで、同日、内田・勝岡・新田・松浦の4理事連名の「事務局長人事をめぐる執行部対応への抗議及び経緯説明等の善処を求める声明」が同じく事務所に送られた。その内容は、@11月12日の執行部告知は、被雇用者に対する違法な懲戒処分を労働法の原則に反して行った不当な処置である、Aコンピューター問題は「事務局長更迭論」の道具として取り上げられた、B「これらの言挙げは、まるで南京大虐殺を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させ」る、というものであった。いかに意見が異なるとはいえ、真摯に事態の打開のために苦闘している執行部のメンバーに対し、「南京大虐殺」まで引き合いに出して糾弾するなど、常軌を逸した行動というほかなかった。こうして、会の混乱はますます拡大していった。
 藤岡副会長は、12月13日夜、新田理事に電話して1時間半にわたってコンピューター問題などの事情を説明した。行き違いの原因は情報ギャップに基づくもので、正しく事実が知られるならば、相互不信は解消すると考えたからである。しかし、後に分かったことだが、この会話を新田理事は録音機を仕掛けて記録していた。宮崎氏を擁護するグループは、問題が顕在化した最初から藤岡氏らを排除するための一貫した行動を取っていた。

 (17)12月15日、八木会長は「理事及び関係各位」に宛てて「会長声明」を発出した。その中で、「会長として自ら収拾に乗り出す決意」をしたとして、翌年3月を目途に新たな執行部・事務局体制を構築する、15日付けをもって宮崎氏を事務局長職に復帰させる、などの方針がうたわれた。
 しかし、この中に、「率直に言えば、私の意志とは別にことが始まり、既成事実が積み上げられていく中で、それを動かしがたい事実と捉えてしまい、限られた選択肢の中で、当会の宥和を図ろうとしたことが、かえって問題を長期化・深刻化させてしまったように思います」と書かれていた。この文言に他の執行部メンバーは愕然とした。理事の中でも、宮崎事務局長に辞めてもらうことにしたという八木会長の意向を聞かされていた一人は、会長あての辞表を用意した。
 特に、「私の意志とは別にことが始まり」との表現は、作為に満ちたものであった。なぜなら、この表現は執行部のメンバーで事態の経過を知っている者にとっては、西尾名誉会長が八木会長の同意を得ないままに事務局長候補として特定の人物に声をかけてしまった事実を指すように読めるが、他方、事情を知らない執行部外の人間には、あたかも八木会長は事務局長人事問題全般について関与しておらず、従って何の責任もないかのような言い回しになっているからである。混乱の責任を他の執行部メンバーに転嫁する身勝手な論理といわれてもいたし方あるまい。自分だけを「よい子」にして、会長に協力してきた副会長らを悪者に仕立て上げるやり方に、執行部メンバーは驚き、呆れ、怒りを感じた。
 19日に、再び4理事の「理事会議題について」という声明が会長声明に呼応するかのように出されたが、その中では、「この会長の言葉は、私どもがかねてよりこの問題に対して感じていた疑念と一致しており、かつ当会の運営上極めて重要な要素を含んでいる」と述べた。結果的に八木会長声明と4理事声明は呼応している。

 (18)12月15日、八木会長をめぐるもう一つの問題が持ち上がった。翌日16日から19日まで、八木会長は4人の事務局員とともに中国に旅行するため、15日夜、成田に前泊した。この旅行そのものは数日前から他の執行部メンバーも知るところとなっていたが、15日の深夜、八木会長らの一行に、処分保留中の宮崎事務局長も同道していることが判明した。
 これは一理事の表現を借りれば、「裁判官が被疑者と一緒に旅行する」ようなものであり、八木会長に協力して人事問題に取り組んできた他の執行部メンバーに対する背信行為といってよかった。こうして、会長声明と、中国旅行への宮崎事務局長同道という2つの問題をめぐって、「八木会長問題」が浮上した。

(19)12月25日、執行部(八木・遠藤・福田・藤岡)に西尾名誉会長を加えたメンバーで会合をもった。八木氏は懐に辞表を持参していた。冒頭、西尾氏は会長人事での前述の先走りについて謝罪し、八木氏は今後その責任は問わないとした。次いで、八木氏の会長としての行動が次の2つの重大な問題点を含んでいることが指摘された。
 第一は、八木会長が、この間、執行部のすべての決定に参加してきたにもかかわらず、「私の意志とは別にことが始まり」と書いて、宮崎事務局長の人事に関与していないかのような風を装い、責任を他に転嫁したことである。これについて、八木氏は「(他の執行部メンバーと)一緒にやってきた」と言って、事実を認める発言をした。そこで、12月15日の会長声明を訂正することになり、その案文を八木氏が作って執行部メンバーに提示することで合意した。
 第二は、会長の中国旅行に、執行部として処分を決めた宮崎事務局長を同行させ、その事実を執行部の他のメンバーに隠していたことである。これについては、八木氏は「言いづらかった」と弁解した。しかし、この時点では、八木会長の一行が中国社会科学院と歴史認識をめぐる会合をもったことは知らされていなかった。
会長が理事会を開催せず、執行部会も招集せず、理事への説明もないまま事態を放置し、混乱を拡大してから、会長が乗り出すとして一任を取り付けるというやり方についても厳しい批判が出された。しかし、会長の辞任などは求めず、会の運営を正常化する努力を払うことをお互いに確認して会合は終わった。

 (20)年が明けて平成18年1月12日、執行部会(八木・遠藤・福田・藤岡+西尾)が開催され、出席者は「会員管理システム問題にかかわる宮崎弁明書への反論」を4時間かけて細かい字句にいたるまで検討し、同日付け文書として確定した。執行部の反論は、次のように宮崎事務局長の問題点を改めて整理した上で、個々の論点についても反論を加えた。
 @相見積をとらず、安易に縁故に頼って特定の会社に発注した。A種子島担当理事は、a)問題のある旧システムをベースにせず、全く新しいシステムを構築すること、b)ユーザー側の要望を一本化し宮崎事務局長が折衝の窓口となること、という2つの重要・適切な指示を行ったが、どちらの指示も守らなかった。B契約にあたり、すべてを口約束ですませ、契約書や見積書、仕様書などを作成しなかった。Cソフトが完成した段階で、つくる会側の要求を統合・集約しないまま、事務所でそれまで使っていた「ファイル・メーカー」というソフトをベースに作業のやり直しを求め、同ソフトを扱ったことがない業者にずるずると作業を続けさせた結果、総額1728万円もの制作費を請求される結果となった。D相手側の会社は、「会員管理システム保守契約書」と称する文書は、実際はソフトの制作費の分割払いであるとの立場をとっており、そのことは宮崎事務局長との間で口頭で約束したとしている。この件を曖昧なままに放置したことが、現在の事態の直接の原因をなしている。E1年前から発生した、保守サービスを十分に受けられない事態についても、解決に取り組まないまま放置した。
この文書は、八木会長以下5人の正副会長の連名の文書として理事会に提出されることとなった。

 (21)1月16日、2ヶ月ぶりに理事会が開催された。執行部批判の声明文を出した4理事のグループは、宮崎事務局長と連携して、藤岡副会長にターゲットをしぼった大量の批判文書を出すなど、周到な準備の上で臨んだ。善意の学者理事からなる理事会は、このような組織的な分派活動の対象になると、ひとたまりもなかった。八木会長は自ら署名した宮崎弁明書への執行部の反論文書を読み上げたが、その本心はすでに反執行部グループに同調する立場に立ってしまっていたから、新田理事らに追及されると、矛盾を露呈し、しどろもどろになる場面があった。八木氏は、会長としての指導力不足をさらけだした。
 宮崎事務局長の責任問題については、弁護士である内田理事が法律論を振りかざし、理事会の発言をリードした。執行部側は処分案の決定の場に同席していた弁護士の高池理事が欠席した影響もあり、法律の専門的な話を持ち出す内田理事の発言によって、議論は一方的なものとなった。反執行部グループは新田理事を中心に絶え間なく発言し、宮崎氏の責任は全くないかのような議論をまくしたてた。つくる会の会則に基づき、西尾名誉会長と藤岡副会長を会から除名することを暗示する発言も出された。西尾名誉会長はいかなる資格で理事会の場に出席しているのか、という詰問と受け取られるような新田理事の発言もあり、会の創業者である西尾氏が名誉会長の称号を返上し、会を離れると声明する引き金となった。
 八木会長は、会議のまとめとして、@コンピューター問題については、宮崎氏の処分案を執行部において再検討し、この問題に関する理事会への処分案とあわせて原案を次回理事会に提出すること、A採択戦の総括委員会を設置し、委員の人選は会長に一任すること、を結論として提示し、了承された。

■4 幹部役員の大量辞任から八木執行部の解任へ(2月理事会まで)

(22)1月17日午前3時ころ、西尾名誉会長は、名誉会長の称号を返上し、会を離れることをネット上で表明した。翌日の朝刊には、「若い人と話が合わなくなった。むなしい」という西尾氏の談話が掲載された。
これとは別に、同日、遠藤、工藤、福田の3副会長が相次いで辞任した。示し合わせた行動ではなく、それぞれ個別に判断した結果であったが、共通の理由は、1月理事会で露呈した八木会長の動揺や指導力不足に対する強い不満であった。
 同日午後、八木会長はメールで採択戦の総括委員会の人選を発表した。5人の委員は、八木・遠藤・内田・高森・松浦という顔ぶれで、採択本部長として働いた藤岡副会長の名前はなかった。採択戦の総括はすでに前年9月に基本的には終わっていたが、採択戦の総括が必要であり、その中心にいた宮崎事務局長を総括が終わるまで辞めさせるなという主張が、宮崎氏の支持グループから執拗に繰り返されていた。しかし、それは単なる口実であり、採択の総括の必要を主張した理事たちは一度も自発的に総括レポートを提出したことがなかった。八木会長による上記の5人の委員の人事も、採択活動の実績とは無関係に人選が行われ、藤岡副会長をはずして事実上の会の執行部をこのメンバーで構成しようとする、八木会長の意図を反映したものであることは明らかだった。西尾氏が会から去った今、余勢を駆って一挙に藤岡氏を排除しようと動いたのであろう。
 同日夜帰宅後、この事実に気づいた藤岡副会長は辞任を決意し、ネット上で辞意を表明すべく作業にとりかかった。そこへ鈴木尚之氏から電話があり、八木会長と同席しているが、これから同氏と会ってほしいと求められた。会合の席で、藤岡氏は、この趨勢では全副会長が辞任するであろうこと、良識派理事も全員が次々と辞め、残るのは八木氏と声明を出した「4人組」の理事だけになるであろうと述べた。すると八木氏は、「それなら自分も辞める」と言い出し、「鈴木氏に免じて副会長に留まってほしい」と懇請した。こうして、鈴木氏の仲介で藤岡副会長は辞任を思い留まったが、藤岡氏はその条件として、総括委員会の人選案を白紙に戻すこと、事務局に鈴木氏が入ることなどを示し、八木氏はそれを受け入れた。こうして、八木会長・藤岡副会長という変則体制で会の正常化を目指すことになった。

 (23)遠藤・工藤・福田の3副会長の辞任は、大きな声で繰り出される圧力に動揺し右往左往する八木会長に対する「しっかりせよ」との叱咤でもあった。ところが八木氏はそれを正面から受け止めることはしなかった。
 1月末に発行された会報『史』1月号には、「西尾幹二名誉会長のご退任に際して」と題する八木秀次会長の声明と、「西尾名誉会長のご退任の報に接し」という小見出しのついた宮崎事務局長の文章が掲載されたが、八木執行部の事実上の崩壊を意味する3人の副会長の辞任は一切報じられず、封印されてしまった。そればかりか、同号に巻頭言を書いた工藤氏は、「副会長」の肩書きを取るようにゲラの段階で事務局に指示したにもかかわらず、無視された。
 名誉会長の退任とともに、3副会長の辞任も、会の運営にとって重い意味を持つ。そこには八木氏に対するメッセージが込められていた。しかし、八木氏と宮崎氏は、西尾名誉会長の退任については大々的に告知する一方で、副会長退任は会長預かりにして事実上黙殺しようとした。その一方で八木氏はこの時期、「(3副会長は)西尾氏の院政に反発して辞めた」との虚偽情報を関係者に吹聴した。西尾名誉会長がすべての混乱の原因であるとの世論誘導を始めたのである。
 言うまでもなく、混乱の原因は人事問題を内紛に発展させることにより保身をはかろうとする宮崎事務局長その人であった。同氏をすみやかに退任させることは、会の再建にとって不可欠となっており、当時八木会長も折節にそのことを表明していた。ところが、『史』1月号で宮崎氏は、「(西尾)先生に、会への深いご愛念を振りきって先生ならではの大事な著作活動に専念していただくため、後顧の憂いをなくすよう微力を尽くすことこそが、先生への恩返しと肝に定めた次第です」と、事実上の続投宣言を行った。
 いよいよ八木氏は宮崎氏に取り込まれたのではないか? 退任した3氏の疑念と不満は再び一気に高まった。一時は藤岡副会長も含め4副会長連名で抗議声明を出す寸前まで事態は動いたが、遠藤氏が八木会長に対して、@欠陥だらけの会則をタテに、副会長退任を1ヶ月以上もタナ晒しにするのは非礼、A「3副会長退任」という事態を正面から受け止めることによって問題を抜本的に解決するという方向に発想を切り替えてほしいと説得し、八木氏もこれを了承、副会長退任がFAX通信で告知される運びとなった。このとき八木会長は、遠藤氏や藤岡副会長らに「宮崎解任の線で動いているから見守ってほしい」と繰り返し述べていた。なお、八木氏は最近の手記で「(3副会長退任は)八木降ろしに連動している」と述べているが、これが見当外れであることは、以上の経緯からも明らかであろう。

 (24)つくる会は八木会長・藤岡副会長の変則執行部体制で会の立て直しをはかった。理事の間には、宮崎事務局長が、自らの保身のために理事会を巻き込み、事務局を巻き込み、さらには外部団体まで巻き込んだ会の内紛に発展させ、会を存亡の危機に陥れた責任を追及すべきとの声が満ちていた。このまま推移すれば、2月末に予定されている理事会で、宮崎事務局長の解雇は免れない状況だった。
 藤岡副会長は、宮崎事務局長の自発的辞任が同氏自身を傷つけない形での問題解決につながる道であり、それ以外に打開の方法はないことを力説して八木会長を説得した。八木会長も事態を理解しているような言動を示し、何度かにわたって、自分の責任で宮崎氏を辞めさせるとの言質を与えた。遠藤副会長にも同様のメッセージを送っている。しかし、実際にはその実行をずるずると引き延ばし、ついに2月理事会にいたるまでその責任を果たすことはなかった。この間、執行部機能はほとんど停止したままだった。

 (25)西尾名誉会長の辞任に加えて、4副会長の辞任または辞意表明の事実がFAX通信で報じられると、評議員や支部長の間で、理事会で一体何が起こっているのか、その実情を調査し、問題を会員に明らかにすべきだとの声が高まった。関東地域の評議員・支部長有志数名は、チームをつくって調査に乗り出し、西尾名誉会長はじめ会長・副会長全員からの事情聴取を試みた。八木会長と宮崎事務局長は、最後まで調査に協力しなかった。その調査の内容の一部は、メーリングリストや3月の評議会などで報告された。

 (26)2月27日、理事会が開催された。まず、議長に藤岡副会長が立候補し、次いで八木会長も立候補して多数決で決めることとなり、藤岡副会長が議長に就任した。議題の冒頭で新田理事は、藤岡副会長の除名動議を提出した。動議を提出した以上、多数決で可決する目算があったと考えられるが、その動議は否決された。このようにして、つくる会史上初めて、ほとんどの議事が多数決で決せられることとなった。
 理事会は、宮崎事務局長について、事務局長としての資質と、自らの保身のため会を混乱させた責任を問い、高池理事からの動議に基づき、退職を決定した。八木会長については、この間の会運営について指導力を欠き、事態を混乱させた責任を問い、解任した。また、八木会長は、前年12月、事務局員数名と中国を訪問し、中国社会科学院で知識人と討論した件の軽率さが批判された。藤岡副会長についても、執行部の一員としての責任が問われ、解任動議が出されて可決した。
 ここまでの決定により、前年9月の総会で承認された執行部は全員姿を消す形となった。そこで、会を存続させるため、急遽、種子島理事・元副会長を会長に選任し、会の再建に当たることとなった。理事会はその他の役員を選任することなく、ここで時間切れ閉会となった。

■5 種子島体制とその変質(3月理事会まで)

 (27)2月28日の産経新聞記事は、「新会長に種子島氏」と報じたが、その中に「理事会では八木会長が昨年12月に理事会の了承を得ずに中国を訪問し、知識人と歴史認識について論争したことを問題視する意見が多数を占め、辞任を迫られたという」とあった。中国旅行はつくる会会長として不注意な行動で、「飛んで火に入る夏の虫」になったらどうするのだとの批判は出たが、それが解任の主要な理由だったわけではなく、会長としての指導力を欠く事例の一つとして挙げられたものだった。しかるに、八木氏も、産経新聞の報道と軌を一にして、中国旅行を理由に解任されたのは不当だ、とふれまわった。
 2月28日、宮崎事務局長は「任期最後の1日」を悪用して、会に対する重大な背信行為を行った。宮崎氏は、種子島会長が発表するようにと事務局に手渡した原稿とは別の原稿に差換え、「 つくる会FAX通信 第165号」(2月28日付)として発信した。その内容は、八木会長の解任動議に賛成6,反対5、棄権3であったとして、決定が僅差で正統性がないかのように印象づけた上で、それぞれの投票者の実名まで明記するという異常なものだった。また、「委任状」がどう扱われたかということまで逐一記載し、八木会長の反論を5行にわたって載せるなど、かなり偏向した宣伝物といってよい内容だった。
 3月1日、産経新聞は、3段ヌキで<八木会長は解任/「訪中」「人事」めぐり内紛>という見出しを掲げた記事を掲載した。その内容は宮崎事務局長が送ったFAX通信の内容と「うり二つ」で、産経新聞「教科書問題取材班」の渡辺浩記者は、宮崎事務局長と共謀し、FAX通信の作成段階にも関与し、宮崎氏にその通信を流すことを強く迫っていた。本文中の小見出しも、「1票差で可決」、「西尾氏院政?」、「空洞化の恐れ」などとし、つくる会に対する誹謗記事といってよいものだった。読者の判断を、解任された八木氏への同情へと誘導しようとする記者の意図は明白だった。
 会のニセFAX通信と産経新聞の記事が連動して、偏向した情報を会員や読者に伝えたことは、問題の解決を長期化させ、困難にする決定的な要因となった。

 (28)種子島会長は、ニセFAX事件によって、一人で問題を処理することに限界を感じるようになり、3月1日、藤岡・福地両理事を「会長補佐」に任命し会務全般の相談に応じる役目を与えた。会長補佐という役職は会則にもないもので、理事会が執行部を選ぶ余裕がなかったことから、やむをえずとられた緊急の対応策だった。種子島会長は、先に送信された「第165号」の「全文取消」を告知した正式の「FAX通信 第165号」を3月1日付で発信した。
 会の再建の方針としては、まず、全国の会員に今回混乱の事情を包み隠さず説明し理解を得て会の正常化への基礎を固め、次に執行部の再建に取り組もうということになった。この方針に基づきブロック会議を開くこととし、3月6日・関東、8日・関西、9日・九州の順でブロック会議を招集し、会長・会長補佐が手分けして出席した。その上で、3月11、12の両日、東京で評議会・全国支部長会議(合同会議)を開催することになった。

(29)ブロック会議から評議会に至る過程で、藤岡会長補佐は八木元会長との宥和路線を必死で模索した。会の亀裂がこのまま固定化し、八木氏のグループが「第2つくる会」のような分裂組織を立ち上げる事態にまで発展すれば、日本の教科書改善運動は分断され、決定的に弱体化し、それによって中国共産党の思うつぼになる。その危険は何としても回避しなければならないと考えた。つくる会の活動家を結んだメーリング・リストでは、八木会長の批判、特に中国訪問への指弾がなされていたが、3月7日、藤岡氏は「私の立場」と題して投稿し、八木氏が保守言論界にとって大事な人材であること、氏の名誉回復の措置が取られるべきこと、会の役職に復帰することを期待すること、などを表明して、八木氏との宥和を模索した。
 3月10日には、藤岡氏は八木氏の自宅を訪問し、2月下旬に八木氏宅に送ったファックスによる抗議文(藤岡氏をはずして八木会長と宮崎事務局長だけで執行部会を強行開催するという動きに対し抗議したもの)の余白に「ふざけるな!」と手書きしたことが夫人を恐れさせたとして繰り返し八木氏から非難されていた問題について、八木夫人に直接謝罪した。これも八木氏が会に復帰することへの障害を取り除こうとするねがいに基づくものだった。その後2往復にわたって八木−藤岡間でのメールのやりとりがあり、両者の関係は修復に向かうかのように見えた。
しかし、まさにこの時期、藤岡氏をターゲットとした一連の謀略が仕組まれ、3月8日には西尾氏の自宅に「藤岡平成13年共産党離党」という怪文書が送られていたのである。

(30)八木氏及び宮崎氏、さらにそのグループは、解任された直後から、上記の産経の偏向記事とニセFAX通信を皮切りに、以下のような一連の謀略的な動きをしていた。
@平成8年に「従軍慰安婦問題」を契機に教科書改善運動を提起した藤岡理事が、平成13年に日本共産党を離党した(すなわち最初の採択戦をたたかったこの年まで共産党に在籍した党員だった)という虚偽の情報を盛り込んだ怪文書を、差出人不明のファックスとして、3月8日に西尾氏の自宅へ送り、ほぼ同じ時期に、種子島会長、田久保理事、関西仏教懇話会の叡南会長の自宅等に送った。
 Aつくる会ヘの大口の財政支援者である、「あなたと健康社」「株式会社フローラ」を訪ね、寄付金返還要求の文書を会あてに出すように工作した。前者から3月9日付け、後者からは3月11日付けに文書が送られ、種子島会長と福地・藤岡両補佐の自宅にも、つくる会の事務所から転送された。
 B伊藤隆理事を訪ねて一方的な説明をし、伊藤氏は理事の辞表を提出した。このことは、3月11日、評議会初日にぶつけて産経新聞で報道された。伊藤氏は、藤岡氏が中心になる会では理事を続けることができないとの趣旨の辞任声明を書き、その声明全文は手回しよく評議会で読み上げられた。
 C宮崎氏と固い結びつきをもった人物が幹部となっている特定の地方支部に工作して、本部への「八木復帰コール」、「2月理事会以前への原状復帰要望」等々を内容としたファックスや文書を本部に送らせた。
 C産経新聞の渡辺記者は、北海道の3支部が会の正常化を願う立場から出した声明を、本部に「離反」したと歪曲して、大きな見出しをつけて報道した。
 Dつくる会東京支部の掲示板に、八木氏を支持し、西尾氏や藤岡氏などつくる会の幹部を糾弾する一連の書き込みが行われた。今日では、そのほとんどが産経新聞の渡辺記者によるものであることが判明している。
 Eこうした動きの集約として、「第2つくる会」の結成に動き初め、事務所探しなどに着手していた。

 (31)3月11,12の両日、東京で評議会・全国支部長会議(合同会議)が開催された。会議では問題の経過が詳細に報告されたが、参加者からは、理事会に対する批判・不信の言葉が出されるとともに、理事会の構成を学者中心ではなく教育現場や採択現場に通じた理事を入れるべきことなど、多くの有意義で積極的な提言が行われた。その要旨は、発言者ごとに整理して、FAX通信第168号(3月13日)で伝えた。新田理事は、極く短時間しか参加しなかったが、藤岡理事を主なターゲットにした膨大な批判文書を参加者に配布した。
 会議の参加者は、「この会議(3月12日)以後は昨年9月以降のもめ事の一切を不問に付し、会の再建のために全理事が和解して努力すること」を理事会に強く要請した。双方に対し相手への攻撃をやめること、理事は仲良くしてほしい、会の理念と出発の原点に立ち返ろう、などの切々とした訴えが参加者から相次いだ。
最後に種子島会長は「3月末に理事会の開催を予定している。かなり新しい体制を提起するつもりなので、『えっ』とビックリされる方も『なるほど』と思われる方も出てくるような新しい体制を作っていくことにしたい」とまとめた。しかし、その内容は、まもなく明らかになるように、実際に驚くべきものだった。

 (32)3月14日、会長の職務の引き継ぎを理由にして、種子島会長は八木氏と面会した。その席で、会長は八木氏に、3月の理事会で直ちに会長に復帰することを提案した。これが評議会で種子島会長が述べた「かなり新しい体制」の中身であった。しかし、これは、評議会・全国支部長会議が強く求めた理事間の宥和の方向に反する一方的な方針だった。種子島会長は、2月理事会の直後には、種子島会長のもとで八木・藤岡の両氏を副会長として任用することで紛争を収拾する構想を語っていたから、藤岡氏はそういう方向に落ち着くものという前提で八木氏の役員(副会長)復帰のために行動していた。種子島氏は、14日の前にも後にも、自らの「八木会長」案を二人の補佐に一切洩らさなかった。2月の理事会では八木会長解任に一票を投じた種子島氏は、この時点で八木氏サイドに転身したといえる。

 (33)八木・宮崎グループは、3月末の理事会をめざして、多数派工作に動いた。ターゲットは、福地理事だった。伊藤隆理事を説得することに成功した八木氏らは、伊藤氏の弟子筋に当たる福地氏も味方に引き込めると考えたようである。3月17日、宮崎・内田両氏が福地氏に面会し、次いで、3月20日、八木・宮崎氏が福地氏に面会した。その席で藤岡理事の党籍問題が話題になると、八木氏は、藤岡氏が平成13年に離党したという情報を公安調査庁の知り合いの関係者から得ていると勝ち誇ったように言い放った。本当に確かな話なのかと念を押すと、八木氏は、信頼できる確実な情報であると再び断言し、宮崎氏は盛んに相づちを打った。

 (34)福地理事は種子島会長に、疑惑の対象にされた藤岡理事からその真相を直接問い質すべしと進言、鈴木事務局員陪席のもと、3月25日、聴聞会を開いた。藤岡氏の詳しい事情説明で、離党は平成3年であると確認できた。藤岡氏の平成8年以降の歴史教科書正常化運動とその言論活動は日本共産党の政治方針とは百八十度違うことは明らかであるが、仮に党籍継続のままならば、除名処分に該当するのは明白だった。

 (35)3月理事会が近づいていた。高池・福地両理事は種子島会長に、どのような形で新執行部をつくるのかを問うた。種子島会長は、「人事一任」を2月理事会で取り付けていると主張し、自身は体調も余りよくないので、一刻も早く八木氏に会長の地位を返したいと言い出した。実際は2月理事会が種子島会長に「人事一任」の権限を与えた事実はなかった。種子島氏による八木会長案の根拠は、「八木氏は全国の会員の人気が高い」、「八木氏はフジサンケイグループの信任があつい」の二つであった。ただし、八木氏から自分は会長かさもなくばヒラの理事のいずれかを所望するとの連絡があり、その数日後には一転して副会長になりたいとの申し出があったという。そこで、3月理事会で、まず、八木氏一人を副会長に据え、7月初旬に予定される総会までに、八木氏に会長を譲るというのが種子島構想であった。「八木さんに会長に戻れといった手前、彼の意向を尊重したい」と種子島会長は言い張った。コロコロと身勝手に要求を変える八木氏に対し、「八木は一体、自分を何様と思っているのだ」と言ったのは福地理事であった。高池理事は、副会長複数制の妥当性を力説したが、種子島氏はこれを無視した。

(36)3月28日、理事会が開催された。開会劈頭に八木氏は、「反省と謝罪の弁」を述べた。藤岡氏も述べた。八木氏の行動は福地理事からの事前の強い要望を受けたものであった。それは、昨年9月から半年以上にわたり打ち続いた一連の理事会の混乱に終止符を打つための儀式でもあった。そして、3月12日の評議会の要望に基づく会長の運営方針「理事会一丸の取組」「既往のことはなんであれ問わない」を確認し、ブロック説明会、担当理事制、隔週の執行部・担当理事合同会議を重ねながら会の正常化を目指す、という趣旨の具体案で合意した。
 人事について、種子島会長は八木理事を副会長に任命し、7月総会までに同氏を会長にすることを決定したいと提案した。しかし、議論の結果、3ヶ月も先の人事を今決定する必要はなく、それは「含み」として理事各位の心中に留め置き、一切公表しないとの合意が成立した。種子島会長の提案は一方の側に偏したもので、評議会で確認された精神に反するものであったが、良識派理事は会の再建のために最大限の譲歩を行い、提案を受け入れた。はなはだ一方的な結論ではあったが、ともかく和解が成立した。理事会では吉永理事の提案で、八木氏が改めて理事会の和解を確認する最後の挨拶をし、拍手をもって理事会を終了した。従って、このまま進めば7月に八木会長が実現するのは確実だった。

■6 謀略の発覚と八木氏ら6理事の辞任(4月理事会まで)

(37)ところが、評議会−理事会で確認された和解の精神に反する裏切り行為は、理事会の直後から始まっていた。八木・新田両氏は、理事会後に事務局が設定した和解の確認の場となるはずの懇親会には来ずに、別の会合に出席した。事務局に説得されて懇親会にやって来たのは1時間半も遅れてからだった。
 理事会終了後、つくる会は産経新聞渡辺記者の電話取材を受け、まず事務局の鈴木氏が理事会決定事項を箇条書きで読み上げ、次いで種子島会長が、つくる会は「第二ステージ」に入ったとの短いコメントを伝えた。ところが、産経ウエブは、理事会終了の40分後に、理事会の決定事項に背く記事を流した。翌朝の産経新聞は、「八木氏、会長復帰へ」と大見出しを打ち、外部に公表しないと確認した人事案について、「7月の総会までに会長に復帰すると見られる」と書いた。それだけではない。理事会では全く議論されなかったのに「宮崎氏の事務局復帰も検討」と報じられ、話題にはなったが「確認」などされていないのに、「西尾幹二元会長の影響力を排除することも確認された」と報道された。八木氏か八木氏側の理事の誰かが、産経新聞の渡辺記者に誤情報を流して書かせたものであることは明白だった。
つくる会のFAX通信第170号(3月29日)は、種子島会長、八木副会長の同意のもと、「憶測を多く含ん」だ記事について産経新聞社に抗議したことを伝え、特に「西尾元会長の影響力排除を確認」、「宮崎正治前事務局長事務局復帰も検討」は明らかに理事会の協議・決定内容ではない、と告知した。

(38)さらに、理事会の直後から、西尾氏の自宅には、差出人不明の怪文書が矢継ぎ早にファックスで送られた。3月8日に送られた前述の「藤岡平成13年離党」文書を含めて計4種類の怪文書が届いたが、その時期を日付順に整理すると次の通りである。
 ・3月 8日 「藤岡平成13年離党」の怪文書(A)
 ・3月30日 藤岡理事の妻の父が国政選挙で共産党候補者の支持を表明したことを示
          す平成5年7月3日付けの「赤旗」の記事(B)
・3月31日 西尾・藤岡往復私信(C)
        脅迫文書:「福地はあなたにニセ情報を流しています」から始まり、一
          連の事態を関連づけて見せた全文10行からなる文書(D)
 ・4月1日  西尾・藤岡往復私信(2回目)(C)
 この中で、特に3月31日に送られたCとDは、西尾氏に対する深刻な精神的打撃となった。西尾氏はその後、これら一連の経過を自身のブログで暴露することになる。

 (39)4月3日、産経新聞の渡辺浩記者は藤岡氏に面会を求め、八木氏から公安調査庁の情報であるとして「藤岡の共産党離党は平成13年だった(藤岡はそれまでつくる会の副会長でありながら同時に共産党員であった)」という謀略文書を見せられて、すっかり信用していたが、ガセネタであることがわかったという告白をし、謝罪した。渡辺記者の一連の偏向記事は、そうした誤情報によってマインド・コントロールされた状態の中で書かれたことになる。渡辺氏は「もう謀略のような汚いことはさせませんから」と繰り返した。6日に再度藤岡氏と会った際に、渡辺氏は謀略をやめるよう話した相手を「八木、宮崎、新田です」と特定した。渡辺氏はこの時期、ほかの多数のつくる会関係者に謝罪して回った。
渡辺記者は、4日、事務局の鈴木氏にも、「謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略はやめようと言ったので、もう謀略はありませんから」と述べた。鈴木氏がこのことを八木氏に伝えると、八木氏は「謀略文書をつくったのは産経の渡辺君のくせに・・・・・・。彼は1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていた」とつぶやいたという。

 (40)八木氏らの一連の行動は、良識派理事たちの善意を踏みにじり、理事会の和解の方針に反旗を翻す重大な背信行為であり、渡辺氏の告白は全く新しい事態の出現であった。こうした事情変更により、この疑惑を解明することなしに会の再建はあり得ないと考えた福地理事は、4月7日、種子島会長に八木副会長に対する事情聴取の開催を求めた。しかし、種子島会長はこれを拒否した。
 4月12日、西尾氏宅にファックスで送りつけられた怪文書の一つである「西尾・藤岡往復私信」が、八木氏の手元に渡ったものと同一のものであることが判明した。そこで、藤岡氏は八木氏に面会し、八木氏の悪事はすでに露見し追及は避けられないこと、八木氏の言論人としての傷を深くしないためには、謀略に加わった他のメンバーとともに早々に自ら進退を明らかにする以外にないことを忠告した。八木氏は、自らファックスを送信するなどの実行行為は否認したものの、自分を支持する人たちがやったこととして、それに伴う自身の結果責任は認めた。
 同日、福地・藤岡両氏は種子島会長に面会し、八木氏が謀略に関与し、偽情報を公安調査庁の確かな情報であるとして藤岡氏を貶める道具にしていたことなどが判明したことを説明し、八木氏の事情聴取を開催することを改めて求めた。藤岡氏は会の名誉を守り、自身の潔白を証明するため、予定されていた8つのブロック会議に出席し、全国各地の会員に事情を直接説明すると発言した。すると、種子島会長は、ブロック会議をすべてキャンセルすると直ちに決断した。そして、結論として、これから八木氏と二人で産経新聞の社長に挨拶に行くので、そのあと八木氏に事実関係を確かめ、@八木氏が謀略に関与した事実を認めるなら副会長を解任し、自分も任命した責任を取って会長を辞任する、A八木氏が否認すれば八木氏に対する事情聴取のための聴聞会を開く、と明言した。

 (41)翌4月13日、この問題を協議するため、種子島会長、八木副会長、福地・藤岡理事の4人に加え事務局の鈴木氏が陪席した会合がもたれた。その席に種子島会長は予め用意した文書を出した。それは全理事にあてたもので、「私と八木秀次さんは、揃って、今日付けで、会長、副会長及び理事を辞任させて戴きます」という内容だった。これは、前日想定したうち、@の「八木氏が謀略に関与した事実を認め」たことになるはずである。しかるに、その会長声明なるものは、八木氏の行動を問題にしたり、会長として八木氏を副会長に任命した不見識を謝罪したりする文言は一つもなく、かえって疑惑の解明を求める福地理事らの行動を非難し、責任を転嫁する内容であった。
 その後の話し合いで、会長を直ちに辞任すると会が混乱するという点を考慮して、種子島会長は30日の理事会まで会長に留まることに同意した。種子島会長は、それは「ぎりぎりの譲歩である」と強調し、30日には理事会の冒頭で辞意表明してそのまま退席すると発言した。

 (42)4月30日、理事会が開催された。議題審議の冒頭、種子島会長、八木副会長が辞意を表明した。両氏の辞任理由の説明は、自らの責任には一切ふれず、逆に藤岡理事らに責任を転嫁する内容だった。福地・藤岡理事は連名で「会の混乱の原因と責任に関する見解」という文書をもとに、謀略の疑惑の事実を説明し、正副会長の議論に反論した。議論は2時間半にわたって続いた。八木副会長も文書を用意して応答し、部分的には質疑に応じる場面もあった。発言の中で八木氏は、八木氏を支持する人たちが謀略をしていたこと、産経新聞の渡辺記者が謀略文書を2通つくって八木氏に送ってきたこと、などを認めた。
 田久保理事は、藤岡理事がファックスに書きこんだ一つの言葉について八木夫人に謝罪したことを引き合いに出し、八木氏が公安情報であるとしてデマ情報を理事などに流布したことは極めて重大であり、八木氏は藤岡氏に謝罪すべきであると発言した。
 藤岡理事は、八木・新田両理事の行為は「この会の活動を混乱させ、あるいは会員としての品位を欠く行為をなし」たものであり、会則20条に定められた除名に相当するとしながらも、八木・新田両氏が「理事会と会員に対し、事実を認め、心から謝罪するなら、すべてを水に流して、大義のために、会と会員と国民のために、手を結びたいと思う。八木、新田両氏らの再考を求めたい」と訴えた。
 しかし、八木氏は謝罪することなく、種子島氏、及び連動して辞任した新田・内田・勝岡氏(欠席の松浦氏を含めると理事の辞任は4人になる)とともに、会場を退出した。その直後、種子島・八木両氏は、すでに会長・副会長の地位を失っているにもかかわらず、一人の事務局員にひそかに指示して、自分たちの一方的言い分を書いた声明文を掲載したFAX通信を送信させた。予め準備したゲリラ行為だった。
 理事会は、その後の対策を協議した結果、高池理事を会長代行に、藤岡・福地両理事を副会長に全会一致で選任した。ここに、理事会内の半年にわたる混乱は終結した。理事会は、小林正氏ら5人の理事を選任し(後の理事会でさらに2人を補充)、7月2日の定期総会に向けて、会再建の歩みを始めた。
 
 (43)以上、八木氏ら6理事の辞任に至る経過をたどってきたが、最後に全体を振り返っておきたい。最近判明したことだが、八木氏は以前から、会の創設者である西尾・藤岡両氏を追放して、つくる会を自分たちの世代で固めるという、クーデター構想とでもいうべきものを複数の知人に語っていた。宮崎事務局長問題は、それとは無関係に起こったことで、八木会長は初めはリーダーシップを発揮して意欲的に問題の解決に取り組んでいた。ところが、理事会内で宮崎氏の擁護グループが忽然と姿を現すとたちまち態度を豹変させて変節し、八木氏自身が提起した方針に基づき汗を流してきた他の執行部メンバーを裏切る行動を取った。会の混乱を、かねての願望を実現する好機としてとらえ直したものと考えられる。
 この間の動きを通して観察すると、西尾・藤岡両氏を排除しようとする、異常なほどの強烈な意思が一貫して感じられる。それに対し、良識派理事は、善意で臨み、宥和と妥協を図ることによって問題を解決しようとしてきたが、それはことごとく裏切られ、逆に利用される結果となった。後から振り返ってみると、八木・宮崎グループとの宥和の可能性は、問題が顕在化したかなり早い時期から消滅していたと考えざるを得ない。
 1月理事会で西尾名誉会長の事実上の追放に成功してからは、彼らは専ら藤岡氏の排除に全力を注ぎ、2月理事会では多数派工作によって藤岡氏を会から除名する手はずだった。それに失敗すると、今度は同氏の共産党歴に関する謀略的な偽情報を流し、これを公安調査庁という国家機関の名前を権威として利用することで信用させるという、反社会的・犯罪的行為にまで手を染めるに至った。
 その謀略的行動が露見し、挫折するに及んで、八木氏らは正々堂々と事情聴取に応じることなく、責任を他に転嫁しつつ自ら辞任・退会していった。組織の指導者としての、また言論人としての倫理を踏みにじった八木氏らの行為は厳しく批判されなければならない。八木・宮崎グループは、辞任・退会後も、ブログなどの手段で、藤岡氏を標的とした人格攻撃を執拗に繰り返している。それは、藤岡氏の名誉を抹殺することによって、つくる会それ自体の崩壊をも狙ったものである。
 「新しい歴史教科書をつくる会」は、この度の理事会内の混乱を痛い教訓とし、会の趣意書に示された創立の理念に立ち返り、多くの方々のご支援のもと、あらゆる困難を乗り越えて会の初志を貫徹するために努力する所存である。